「大和」に会いに広島へ
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こんにちは広報の福永です。
少し前になりますが、広島に出向く機会がありました。
広島といえば、カキ・アナゴ・紅葉まんじゅう・お好み焼き・カープうどん…などなど。
まずはお好み焼きです。
つづいては…といきたいところですが、今回は食についてではなく
その際に訪れた大和ミュージアムについて書こうと思います。
場所は呉市にあり、10分の1戦艦「大和」をはじめとした日本海軍、呉の歴史に関する資料が多数展示されています。
まずは向かう途中で見かけた軍艦?
呉市には海上自衛隊の基地や造船所があるため、よく見かける光景なのかも知れません。
大和ミュージアムに到着。右にある潜水艦は海上自衛隊呉資料館です。
肝心の大和ミュージアムは撮り忘れました…。左にちょろっと写ってます!
すぐ先には造船所が見えます。巨大なタンカーが停泊していました。
いよいよミュージアム内へ。戦艦の模型や、現存している多数の貴重な資料が展示されていました。
大和ミュージアムに来た最大の目的、10分の1戦艦「大和」です。
全長26.3メートル、設計図や写真を元に可能な限り再現されたそうです。間近で見ると、これでもかという迫力と存在感に圧倒されます。どこから見ても絵になる世界最大最強の戦艦です。
艦首には菊の御紋章。後部には四基の巨大なスクリュー。最高速度は約27.3ノットを出します。
二階フロアから観覧することもできます。離れたところから見ることで、より一段と大きさを実感。
舷側の最大装甲厚さ410mm、水平中甲板部で最大230mm、主砲塔防盾部(正面部)で650mmもの装甲厚があるそうです。
2.7センチ連装高角砲は両舷で12基を装備。高角砲と25mm3連装機銃にはシールドが付けられています。煙突においては、直径約180mmの穴がたくさん開いた蜂の巣装甲と俗称される厚さ380mmともされる装甲も備えます。
3連主砲塔は最大仰角45度。か、かっこいい…!!!
戦艦「大和」は、昭和16(1941)年12月、呉海軍工廠(海軍直轄の工場)で、当時の最先端技術の集大成でありながら極秘裏に建造された世界最大の戦艦です。
しかし昭和20(1945)年4月7日、沖縄特攻作戦に向かう途上、米艦載機の攻撃を受け沈没、乗員3,332名のうち3,056名が大和と運命を共にしました。※大和ミュージアム ホームページ内より抜粋。
他にも数多くの貴重な資料が展示されていましたが、
最後にご紹介するのは戦艦「長門」です。
「長門」は「大和」が登場するまで日本最強の戦艦で、2番艦には「陸奥」が存在しました。世界初の40cm砲搭を搭載し、40.6cm連装主砲4基、全長225m、最大幅34m、39,130t、最高速度25ノットを誇ります。終戦まで稼動可能な状態で生き残った唯一の日本戦艦でした。
石坂浩二さんが「なんでも鑑定団」で出品された際に自分で買い求め、「大和ミュージアム」へ寄贈した「長門」の軍艦旗が展示されています。
戦艦「長門」はとても悲しい最期をたどります。終戦後アメリカに摂取された「長門」は武装解除され、中破したまま修復もされずに最後の戦いへ向かいました。帝国海軍最後の戦艦として挑む相手、それは原子爆弾でした。
昭和21年7月1日、太平洋のビキニ岩礁にて行なわれた核実験の標的艦として配置され、瞬間爆発点はセ氏百万度という超高熱を全身に浴びる
ことになります。多くの標的艦がなぎ倒され瞬く間に沈んでいく中、「長門」は沈むことなく衝撃波と高熱に耐え抜き、実験終了後も洋上にその姿を留めていました。
同年7月25日、今度は水中での爆破実験が行われました。爆心地より200mの地点に配置され、水中で爆発した原子爆弾によって発生した巨大な水柱に他の実験標的と共に飲み込まれました。それでも「長門」は海上に浮かび続けていました。しかし、それが最後の姿となりました。4日後の朝、海上に「長門」の姿は無かったそうです。だれにも見取られること無く、
ひっそりと静かに沈没したものと見られています。
戦争が終わっても、孤独に最後まで闘った姿に心をうたれました。
というわけで最後はしんみりとしましたが、以上で今回の記事を終わります。
広報デザイン 福永
駅弁のあなごめしも美味しいですよ。